2019年12月。海士町で過ごすはじめての年末。
今年の年越しそばはこれまでとまったく違う。
ご縁が重なり、92歳のおばあちゃんが自ら打つお手製そばを食べさせてもらえることになった。
ちなみに、筆者のこれまでの年越しそば歴は以下のとおり。
京都の実家(24年間):毎年大晦日の昼に祖母がつくる年越しそば(ニシンそば)を食べる。そばもニシンもスーパーで買ったものだが、昆布と鰹節が効いた出汁とともに味わうそばは最高に美味しい。
東京での単身生活(2年間):カップにお湯を注ぐだけのインスタントそばを食べ、新年を迎える。
そして今年、しゃん山(自分の畑)でそばを栽培するところからすべて自身で行うおばあちゃんのそばと共に来島1年目の年を越した。
きっかけは12月初旬に教育委員会主催で開催された地元学講座に参加したこと。お世話になった保々見(ホボミ)地区在住のフサコおばあちゃんのご自宅に後日お礼に伺った際、偶然そば粉を挽いているところに出くわした。30日に自分でそばを打つと言うので、思わず「食べたいです!」と厚かましくも言ってしまったことが発端である。
「そばを打つ様子も見たいです!」
おばあちゃんは快く応じてくれ、12月30日の午後、改めてご自宅を訪ねた。
私が到着した頃にはそば打ち作業はほとんど済んでいた。朝から正月用の餅をついて、そばも打ってしまったらしい。ただ、私が「そば打ちを見たい」と言っていたので、最後の数百グラムだけ打たずに置いておいてくれた。
10割そば。つなぎはそば粉150gに対し生卵1つ。
慣れた手つきでどんどん打っていく。
おばあちゃんには6人の息子や娘がいる。その内5人は島外の都市部で暮らしている。
毎年お盆の時期には帰るが、冬は海が時化るので島外からの帰省はない。
おばあちゃんの手打ちそばが大好きで、「隠岐のそばがいい!」と言う子や孫たちのためにこの時期になると毎年そばを送るという。
「昔はみんなワガトコ(自宅)の山(畑)でそばつくりよったけど、みんなやめた」
「今では、この地区でワガトコでつくりよんのは、わしだけ」
島内全体で見ても、今もそばを自家栽培している家はごくわずかとのこと。
打ち終えたそばは麹蓋(もろぶた)へ。
打ったそばはその日のうちに一度茹でておく。
自宅の玄関前に大きな窯が用意してあった。そばの量が多いので自宅のキッチンでやると鍋の大きさに限界があり効率が悪いそう。
そういえば、私が到着したときからおばあちゃんはたびたび「晴れてよかった」と言っていた。最近は雨が続いていたので天候を気にしていたらしい。
火起こしに使用するのはとても年季の入ったマッチ。パッケージの字体がかわいい。
日産農林工業株式会社は1991年に社名変更しているようなので、少なくとも30年以上前に購入したモノということだろうか。
薪をくべるのは一苦労。
燃えやすいよう、自ら薪を割る92歳のおばあちゃん。元気すぎて言葉が出ない。
手伝おうと試みたが、斧を何度振り下ろしても薪にうまくあたらない。運よくあたったとしても、力が足りないのか全く割れない。役立たずですみません...
窯にたっぷりの水を入れ、湯が湧いたらそばを少量ずつほぐしながら鍋に入れる。
茹で上がったら冷水でしめ再び麹蓋へ。
長年使いこまれた麹蓋の側面には、おばあちゃん宅の屋号を示す「上」の字が刻まれている。
できあがったそばは、ご近所さんや都市部に住む息子さんや娘さんの元へ届けられる。
作業がすべて終わった後、出来立てホヤホヤのそばをいただいた。
初めて味わう地元のおそば。
10割そばなので食感はボソボソしている。そばの香りが一気に口のなかに広がるのが特徴。
なにより、そばの栽培にはじまり、粉を挽き、手で打ち、茹で上げるまで本当に手間暇かけられている。そばの味は特別な経験とともに一生私の心に残るだろう。
今回、ご一緒させてもらった工程のなかで私が手伝えたことはほとんどなく、少しモノを運ぶ程度だった。それでも、おばあちゃんは頻りにこう言ってくれた。
「あんたがおってくれてよかったわ」
今後もおばあちゃんの元へ通って、いろんなことを教えてもらおう。